
寒河江市にゆかりの歴史的人物を知っていますか 寒河江市の歴史や由来を簡単にご紹介
寒河江市 歴史紀行
寒河江の川面に映る
八百年の物語
鎌倉幕府を支えた学者一族の武将たちと、刀を鍬に持ち替えた武士たちが育てた「さくらんぼの里」まで。
山形県のほぼ中央、最上川と寒河江川が出会う盆地に、寒河江市はある。今でこそ「日本一さくらんぼの里」として全国に知られるこの町だが、その地面の下には、鎌倉時代から実に約四百年にわたってこの地を治め続けた、ひとつの一族の記憶が眠っている。学問の家に生まれ、武士として頂点に立った男。父と敵対し、都を追われて流れ着いた息子。そして武士の世が終わったあと、刀の代わりに苗木を手にした人々。寒河江の歴史は、権力者の交代劇であると同時に、「肩書きを失った者たちの再出発」の物語でもある。
都から来た学者、寒河江を賜る ― 大江広元
物語の起点に立つのは、大江広元(おおえのひろもと)という一人の文官である。京都に生まれた広元は、代々学問をもって朝廷に仕えた大江家の出身だった。菅原家が「菅家」と呼ばれた学問の家系であったのに対し、大江家は「江家(ごうけ)」と称され、広元自身も当代随一の学者として知られていた。
そんな広元の人生を大きく変えたのが、源頼朝からの招きである。元暦元年(1184年)頃に鎌倉へ下った広元は、幕府の文書と財政を担う公文所(のちの政所)の初代別当に就任。さらに文治元年(1185年)、全国に守護・地頭を置くという制度を頼朝に進言したのも広元だったとされる。この制度によって鎌倉幕府は実質的な支配体制を整えたといわれ、広元は幕府草創期の頭脳そのものだった。
その功績が実を結んだのが、文治5年(1189年)の奥州合戦である。奥州藤原氏を滅ぼした論功行賞として、広元は出羽国の長井荘と寒河江荘の地頭職を与えられた。京の学者が、遠く離れた出羽の荘園の主となった瞬間である。翌年、広元は舅にあたる多田仁綱を目代(現地代官)として寒河江に送り込み、本楯(現在の寒河江市本楯)にその拠点を築かせた。これが、大江一族と寒河江の四百年に及ぶ関わりの始まりだった。
父と子、承久の乱で袂を分かつ
建久3年(1192年)、広元の広大な所領は子どもたちに分割相続され、嫡男の大江親広(おおえのちかひろ)が寒河江荘の地頭職を継いだ。親広は寒河江八幡宮を氏神として祀り、長岡山山頂の観音堂を再興し、建保2年(1214年)には大沼大行院を再建するなど、この地に信仰の基盤を築いていく。
だが承久3年(1221年)、親広の運命は父の功績が皮肉にも導いた戦いによって暗転する。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒のため兵を挙げた承久の乱である。このとき幕府軍を勝利に導いたのは、ほかならぬ父・広元の進言だった――京へ攻め上るべきだという強硬論を主張し、それが幕府軍の勝利と、幕府による公家政権への優位確立を決定づけたのである。ところが息子の親広は、その父が支えた幕府にではなく、後鳥羽上皇方について戦っていた。乱は幕府方の圧勝に終わり、親広は敗者として鎌倉を追われ、寒河江の地に落ち延びることになる。父が築いた勝利の陰で、息子は流浪の身となった。歴史の皮肉というほかない。
その後も大江氏の当主は鎌倉に留まり続けたが、弘安8年(1285年)の霜月騒動ののち、大江元顕(おおえのもとあき)の代についに一族は寒河江へ本格的に下向し、本楯を拠点とした。京・鎌倉の中央政界を離れ、大江氏はいよいよ出羽の地に根を下ろしていく。
寒河江氏、興亡の三百年
南北朝期、当主大江(寒河江)時氏の代になると、一族は本楯から寒河江城へと拠点を移し、以後「寒河江氏」を名乗るようになる。応永年間(1399年〜)には鎌倉方につき、室町幕府や隣国の伊達氏と対立。文明11〜12年(1479〜80年)には伊達氏の侵攻を撃退する(菖蒲沼の戦い)など、周辺勢力と一進一退の攻防を繰り広げながら、寒河江氏は約三百年にわたってこの盆地に君臨し続けた。
しかし戦国の世に終わりが近づくにつれ、東の山形城主・最上義光との緊張が高まっていく。伊達輝宗ら国人衆を巻き込んだ合従連衡の末、天正12年(1584年)、寒河江氏は最上義光との戦いに敗れ、当主は自害。ここに、大江広元から数えて約四百年続いた大江氏による寒河江支配は、静かに幕を閉じた。
滅亡後、寒河江氏の傍系にあたる寒河江肥前守・寒河江光俊・寒河江十兵衛らは、勝者である最上義光にそのまま家臣として仕えた。義光が没した際には、肥前守と十兵衛が殉死したと伝えられている。かつての領主一族が、滅ぼした側の忠臣となる――これもまた、この地の歴史が持つ複雑な陰影のひとつである。
権力者が変わっても、山は残った ― 慈恩寺
大江広元、寒河江氏、最上氏、そして江戸幕府。次々と支配者が入れ替わるなかで、ただひとつ変わらず祈りの場であり続けたのが、本山慈恩寺である。天平年間の724年、行基によって開かれ、聖武天皇の勅願によって創建されたと伝わるこの寺は、平安時代には藤原摂関家、鎌倉から室町にかけては地頭である寒河江大江氏の庇護を受けた。そして大江氏が滅んだのちも、最上氏、さらに江戸幕府がその寺領を認め続けた。
江戸時代の慈恩寺は東北随一の御朱印地を有し、最盛期には三ヶ院四十八坊を数える大寺院だった。現在も残る本堂は元和2年(1616年)、山形城主・最上家親の代に着工され、三重塔や薬師堂とともに、平安・鎌倉期の仏像群を今に伝えている。時の権力がどれほど移り変わろうとも、人々の祈りだけは絶えることがなかった――慈恩寺は、寒河江という土地そのものの記憶装置と言えるかもしれない。
刀を鍬に ― さくらんぼの育ての親たち
明治維新は、武士という身分そのものを消し去った。禄を失った武士たちは、新しい生き方を探さねばならなかった。その一人が、鶴岡生まれの元庄内藩士本多成允(ほんだせいいん)である。家禄を失った本多は西村山郡役所の書記となり、明治20年頃から自宅周辺でさくらんぼの栽培を試み始めた。武士としての誇りを、果樹という形で土地に注ぎ込んだのだろうか。のちに寒河江町長も務めた本多は、明治21年(1888年)には渡辺藤右衛門とともに柴橋村(現・寒河江市柴橋)に郡立の農産物試験場を設立し、新しい作物の普及に力を尽くした。
本多より少し先んじて動いたのが、内楯の井上勘兵衛(いのうえかんべえ)である。明治9年(1876年)、山形県令・三島通庸が北海道開拓使庁から苗木を取り寄せた際にこれに同行し、譲り受けた苗木を自宅に植えたのが、寒河江でのさくらんぼ栽培の始まりだったという。井上はのちに山桜を台木とした苗木づくりを普及させ、明治28年(1895年)には自宅でさくらんぼの缶詰加工にまで挑み、苦心の末に成功させている。
彼らが蒔いた種は、隣町でひとつの実を結ぶことになる。
東根の佐藤栄助(さとうえいすけ)は、代々醤油醸造業を営む家に生まれたが、株で財を失い果樹園経営に転じた人物だった。県外出荷を始めたものの実割れと腐れに悩まされ続けた栄助は、大正元年(1912年)から品種改良に着手。これが今日、日本を代表する品種となる「佐藤錦」の誕生につながっていく。苗木商の岡田東作(おかだとうさく)がこの改良を側面から支え、昭和3年(1928年)にその名を「佐藤錦」と名付けて広めた。
本多成允
1847–1917元庄内藩士。西村山郡役所書記を経て寒河江町長に。さくらんぼの育ての親として知られる。
井上勘兵衛
1859–1917北海道から持ち帰った苗木で、寒河江でのさくらんぼ栽培を開始した先駆者。
佐藤栄助
1867–1950実割れに悩んだ末、大正元年より品種改良に着手。「佐藤錦」を生み出す。
岡田東作
1881–1954苗木商として佐藤栄助を支え、「佐藤錦」の名付け親となった。
城下町から「さくらんぼ王国」へ
昭和29年(1954年)、寒河江市が誕生する。かつて大江氏、寒河江氏が四百年にわたり治めた城下町は、今度は果樹の町として歩み始めた。昭和63年(1988年)には、さくらんぼの原産地とされるトルコ・ギレスン市と姉妹都市を締結。武将たちが去ったあとの寒河江は、世界とつながる果樹の都となったのである。
現在、市内には大江氏ゆかりの城跡や寺社、用水路などが今なお数多く残り、「大江氏マップ」として市が案内するほどに大切にされている。寒河江城跡はかつて寒河江小学校の周辺にあったとされ、今も道筋や堀跡にその面影をとどめている。
参考:寒河江市公式サイト「寒河江と大江氏」「大江氏マップ」「さくらんぼ大百科事典」、Wikipedia「寒河江氏」「慈恩寺(寒河江市)」ほか

